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T 芸は人なり<1> 私は自らの考えを著作したり取材に応じたり様々な機会に少なからず語っている。しかし、本来芸能を志す者には「芸」ほど自分を語れるものはないのである。その人の考え方や生き方まで「芸」にこめて語ることが出来る。かの偉大なる芸術家チャールズ・チャップリンは「映画は観てわかるものでなくてはならない」と。舞台空間ばかりではない。いかなる場所で演じてもその人の本質的力量を知ることは容易である。大神楽師には「ラヒ」(回檀)と呼ぶ「町廻り」の行事があるが、その技芸の力量は特に舞台では集中的に顕著になる。自分で演じた技芸をそれ以外の場であれやこれや、くどくどと弁解するのはプロを標榜する芸人として最低の行為ではないか(演じなければ論外である。プロとは芸能実演家のことなのである)。ましてや日頃、大言壮語で他者を批判する「プロ」自称者にとって、自分の「芸」を公式に披露する場面が設定されていれば正々堂々と主張できる(それこそ芸人にとってこの上無き)絶好の機会ではなかったのか。 <2> 演芸の世界で私が尊敬する五代目柳家小さん師匠は常々「芸は人なり」と云っておられた。心が邪(よこしま)で汚い人間は、長いうちには邪(よこしま)で汚い「芸」になるものだ、と。万理に通ずることだが、芸人たるものその全ての人間性が「芸」に顕れるとの心構えの教訓である。私は上演する機会には「道半ば」故に全力投入であり続けたいと思ってきた。一門挙げての上演でも未熟さに反省することしきりである。祖父や父もそうであったことだろう。人間のやることに完全など有り得ない。その不完全さを補ってくれるのが「芸」そして「観客」への誠実な姿勢と真摯な精進ではないのか。演技以外の場で弁解じみたことを云う人間はなぜそうなるのだろうか。それは唯、一点に尽きる。自己の「芸」に自信がなく、そのことが他団体や大衆の前で即ち「白日」のもとになることへの恐れに他ならない。私は今日までこのような人物に「芸」で脅(おびや)かされたことなど一度もない。 <3> 世の中には「白」を「黒」と押し通して憚らぬ、もの事を自分勝手にしか解釈できない人間がいる。長年にわたって「スパイ大作戦」もどきの情報収集活動を駆使して、わが家のことをあれやこれや、利己的に狙ってきた。私がホームページで余儀なくこの問題の本質を白日のもとにさらしてからは、世間でよくある「兄弟ゲンカ」や「お家騒動」には留まらぬ一件であることや、どちらが今もって執拗に関係しようとしてきているのか、の是非が理解されてきた。このような人間は、誰かしらと関わりをもたないと自分を主張できないものである。「虎の威を藉る狐」の諺が昔から云われてきたが「虎」ならぬ「海老」の威をも藉りかねない。柳貴家なかんずく水戸大神楽の歴史の中で他家のネームバリューを広告塔≠ノするような無恥(はじしらず)な「二心者」など存在してこなかった。私の尊敬する大神楽の名門・舘三太夫師匠は水島道太郎(映画俳優)とは実の従兄であったが、自らの広告塔≠ニして利用することなど唯の一度もなかった。誠に「誇り高き男」であり、お師匠さんには何よりも秀でた「芸」があったからである。「芸」こそは「人」なり、そして財産なり。芸人たるもの肝に銘ずべし。 <4> 「芸」は己が体現する、一瞬の光茫である。その一瞬のために永き精進が要る。それが無形の文化ゆえの宿命である。己が体現できない者にかぎって、やれ先代がこう云っている映像がある、やれカセット・テープの記録がある、などと自滅するようなことを云うものである。先人たちの話の中でのみ伝え聞く、それ以前の名人上手の伝説的技芸には胸躍るものがある。道半ばの私は、それらの伝説的技芸にあこがれ且つ「範」としつつも、先代とは違った試み・精進で、大神楽を高めたいとも思う。わが父は祖父の「足元にも及ばない」が口グセであった。しかしドラスティックな時代の変化の中で模索してきた努力には敬服する。プライベートでは私との間でも種々あったが、そんな若干の私的なエピソードや裏話を故意に拡大しても、父の功績や私の人生が全て無になどならない。むしろ本人の同意のない秘密裏の録音や録画(云わゆる盗聴、盗撮、盗録行為)の類があれば、それこそそれを悪用(相手を脅したり、おとしめたり)する卑劣な人間性が暴露されることになりかねない。
U 鴨川≠フ流れは何処へぞ<1> 平成14年から「総本家」を名乗りはじめて、私が「宗家・家元」であることを詐称していると攻撃中の人物との間で、水戸大神楽(水戸藩御用神楽関係の名称は全て同義)の家元継承に関する合意を初めて世に公表したのが、1984年7月10日のことである。父からの代譲りで正式に決着したのが昭和63年(1988年)である。そして更に彼の自署捺印入「家元承認証」を彼の自宅で彼自身から手渡されたのが1994年6月5日である。父の最晩年である平成14年11月1日付遺言書(検認済)はそのことを追認している。要諦は昭和63年の父の意志そして1994年の自らの意志。これで(二心≠ウえ持たない人間ならば)全て決着済みのことなのである。これ以外のことなどにまともに応える誠意など覚えぬ程、バカバカしいことではないか。 <2> 「鴨川嘉之助は親方(師匠)から勘当の身で跡を譲られていない」。ある人物が声高に主張していた公的な記録がある。鴨川嘉之助(昭和46年7月5日没。その亡骸はわが家の車で国立水戸病院から自宅まで父と私で送った)は秋葉神楽の道統をひく親方であった。大洗町の磯浜町新町に居住していた所以で「磯乃家」と号していた。「高波」「勝三」(昭和17年大日本太神楽曲芸協会茨城支部会員名簿)の両名はその子息である。この両者共、昭和30年代半ばには転(廃)業している(それ故に当時小学生であった私が舞子≠ニして場先へ行かされたのである)。わが父である先代正楽はこの秋葉神楽の道統も継承した(実子でさえやらなかった嘉之助の入院費全額を負担し、死後3年間「場」代を未亡人宅に届けた。礼節を尽くした誠に立派な後継者である)。今度はその父が「譲られていない」と言っている、と云う者がいる。鴨川家も「譲っていない」と言っている、と。父の映像と鴨川家の文書を手にしているのだろう。私の手元にもある。今日(こんにち)あることを予見し憂えた人物が残してくれた鴨川嘉之助・勝夫親子の実名入の文書である(あるはずがない、などと自分に都合よい解釈を今回だけはしない方がよい)。来るべきその「時」には必ず提出する。 <3> この問題の核心は一体「誰」が「いつ」「何のために」持ち出してきたのかにある。長年に亘るその背景と野心家による野望の構図と足跡こそ鮮明にし責任の所在を明白にしなければならない。それが為にそれこそ長年に亘ってわが家が受け続けてきた社会的ダメージと精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものがある。担ぎ出された≠ニはいえ加担した人間たちの責任は免れることはないだろう。しかし、担ぎ出した$l間の悪意に比べればそれらは二の次である(野望の果ては墓地の権利まで手に入れて自己の正当性を主張しかねない、正に天をも恐れぬ所業まで行きつくことだろう)。水戸大神楽家元として首尾一貫してきた私には全く動ずべき理由など無い。 <4> <正楽家が伝える水戸大神楽の由来(歴史)>
<正楽家が伝える水戸大神楽の系図> (平成6年および平成10年正楽著作系図)
V 解き難い矛盾=iその一部)何が変わったか? 平成10年1月1日 新聞広告(正月イベント)
平成10年12月下旬 広告(同じ主催者による平成11年正月イベント)
破の章 その3 「続 宗家・家元の証明」(予告編)へと続く...
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