−水戸大神楽の正しい歴史を後世に伝えるために−

<急の章> われらがその未来 明るかりき

 
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「春宵夢幻」の如き佳い季候である平成20年4月10日。わが母は84回目の誕生日を迎えることができた。 加速度的に荒廃の一途を辿る現代社会は家族・地域・職場など国のあらゆるレベルで人間関係が空疎となり崩壊の危機に直面しています。もっとも小さな単位であるわが家では、母をはじめとする家族関係にも様々なことが日常茶飯事に起きますが、幸いにも平和で良好の部類ではないかと思います。しかし、世の中それでは気に入らぬ、あるいはそれでは困る人間も居るのです。「十年一昔」で母の実情を記してから早一年になります。あれから一年、性懲りもなく再び「母の惨状」を記した「内部告発」なるものが出され、私への攻撃材料になっています。世の人々も不可解に思うであろうことは、この一年間、彼は一体何ゆえに実母の惨状をそれほどまでに熟知しながら放置してきたのか?と云うことです。まさに他人事≠ナす。

母からのお願い 「亡夫と同じく自分の意志で長男に全てを任せているのであり、長男もそれに応じてくれている。亡夫同様にどこへも行くつもりもなく、どうかこのまま静かにしておいて欲しい。今、安心で幸せなのだから。」(平成20年4月10日)
   
  「申し訳ありませんが、誰からの贈りものも、今は受け取りません。気持ちだけで結構です」(同4月11日)

 

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先般来、インターネット上で私の真の人間性≠ネるものを暴露すると「豪語」されていたので、さぞかし私自身も知らないような反社会的・反道徳的なことを、枚挙にいとまがないほどに書き連ねてくるものと、内心密かに期待(?)していました。結果は「大山鳴動して鼠一匹」の感が否めません。もはやまともな論争の域ではなくこれ以上、世の人々を不快にさせることもないでしょう。私たちはまだ現在進行形であり歴史≠ノなるには時間があります。その評価は後世の判断に委ねるにしても、双方の主張を判別できる客観的材料は不可欠であると思います。中国における「勝手に商標申請」(2008年4月8日付読売新聞)の日本版が起きないように。文化財保護法と商標法の正しい整合性、運用の為にも今回、苦渋と覚悟の決断でしたが、一石投じた意義はあったのでは、と。いずれにしろ世の人々を「陪審員」として私が提起した「社会法廷」における各々の「弁論」は、双方の生き方や考え方、そして知性や品性を包含した全人間性の対峙を鮮明にしてひとまず終了したとの思いがします(「骨肉」の恥を上塗りし世に晒し続けた不如意な日々でした)。

<閑話休題>

「祇園精舎の鐘の声      諸行無常の響きあり
  沙羅双樹の花の色      盛者必衰の理を顕す
  奢れる人も久しからず    ただ春の世の夢のごとし」
                      (平家物語)

平相国こと平清盛の気宇壮大な理想に、残念ながらかの源頼朝は及ばないと思います。

「面白き こともなき世を 面白く・・・・・・・」
                    (高杉晋作 辞世)
東行こと高杉晋作らしく、後の句を残すことなく旅立ちました。盟友であった野村望東尼が「住みなすものは 心なりけり」と続けましたが、拙者は「生きてこそ我(われ) 悔も残らじ」と思えてなりません。

「あまかけり いづくの空に いますとも
        こころはゆきて つかえまつらん」
                   (徳川慶喜)
お父君である烈公(徳川斉昭公)旅立ち≠ノ臨んでの最後の将軍・慶喜(けいき)公のお心を伝える歌ですが、父への思いは今も切に我が胸に迫ります。天のみぞ知る、人の生(よ)はまことに人智の及ばざるところですが「どの死もその生にふさわしくなければならない」との言の葉の如く、かくありたいものです。

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積年の懸案の一つ「大神楽の世界−奥伝編−」(仮称)は漸くその「形」が斉(ととの)いつつあります。著作権についても慎重に確保しなければなりませんが、なによりも大神楽師としての私の神命がこの一書に集大成されるはずです。今やわが家の眼目は、民族の精神文化を宿した伝統芸能として、尚かつこれからも創造・進化を続ける生きた芸能としての「大神楽」その楚(いしずえ)≠さらに強固に確立することにあります。私が掲げる旗印≠フもとに集う一門や同志と共に。

伝統を踏まえた「無形の美術品」の如き舞台が理想ですが、この夢は後代の精進に委ねる他はありません。小さな「家」の気宇壮大な「志」です。大神楽界の夢想家の独り言と、ごェ恕の程乞い願うのみです。

<結びから産霊(ムスヒ)へ>

平成十九年初秋。祖父初世菊蔵の五十回忌法要を営みました。老衰ぎみの母の存命中にささやかながら衷情溢れる供養が叶った一日でした。今から120年もの昔、柳貴家初祖(天保13年生)入門(芸養子)。やがて「中興ノ祖」と呼ばれたその苦難と名誉ある清貧な芸道ひとすじの人生は、激動の昭和33年9月25日に幕を閉じました。この偉大な芸祖(血統初代)によって集大成され点灯(と)もされた水戸藩ゆかりの伝統技藝の燈明は、決して消えることなく正楽歴代(柳貴家本家当主名)と共に一子相傳の如くその手≠ゥら手≠ヨ、新たなる「誇りの炎」を産霊(ムスヒ)ながら、伝えられていくことを信じて疑いません。燈々代々(とうとう・だいだい)そのままに。われらが水戸大神楽の未来は、限りなく明るかりき、です。